面白いから笑うというよりは、笑うから面白いのでしょうね。
私はよくツボにはまること多く、笑いの範囲が広いとも言い、中心が少しズレているらしいけども、1日一度は自然と笑えます。
そのほとんどは人と話しているときです。口調のリズムとか、動作(ジェスチャー)とか、内容以外が面白いこともたくさんあるのですが、
何が面白いのかということを真剣に考えたとしたら笑えないんですよね。
だから、笑うことって能力としてみたら高等ですよね。
でも相手を笑顔にするというのはもっと凄いことですよね。
私自身は自分にユーモアのセンスがあるとは感じないので、面白いことって普段あまり言えない方かなって思います。
世の何万のブログをみた訳ではないけれど、そのブロガーさんに面白い人はたくさんいて、
同様の「おもわず笑ってしまう」面白い記事は、真似ながら書けばスキルが自然と身について書けるようになるかも知れません。
テーマは極めて本質的なものを扱いながら、
文章のリズムは肩の力を抜くような効果を以て、
感覚的なバランスを考えているような人もいます。
ただ、私は自分の文章は人に受けるかどうだろうナド考えず、でないときっと
書いていても億劫になるだけだと思うから、
あんまり堅物な雰囲気にならないように気をつけて、
自他ともに公開する日誌になれていこうと思っています。
デジタルでもアナログでも、自分の記録としてのそれは何年か書き続けていますが、
気持ちの整理を主な目的として書くことが多くなって、
生まれ変わるために?自分の本音と向き合うようにしてからは尚更
問いつめ、書いて、問うを繰り返すから、人様にお見せすることはないけど改めて
ブログとして意識すると「私の文章、別に笑えるものではないな」って、
ちょっと気になると言えば気になるのです。
やっぱり、誰かに好いてもらえること私は嬉しい。
自分に言うのです、
自分の気持ちなのに以前は気恥ずかしいことでした。
けれど素直に今は思います。
水やりしながら、心も満ちるよ。
先月から自宅に観葉植物を招いて可愛がっています。初心者も簡易な世話で育てやすいものなのですが、
目が覚めて最初に挨拶したり、触れて可愛いなとほっと思える気持ちは、
自分の心に水をやっているようですから、互いに育成しあう関係ですね。
親子関係や恋愛関係にある者同士にも対応する関係性と言えるのでしょうか。
今の私に子どもはいないし、恋人もいません。
ようやく自分のことに向き合う、その向きを変えたばかりの段階で子育てはとても考えられないと思うけれど、幸せは、自分で描く次第だと教わって実感を持つようになってからは、恋人の存在も執着できなくなりました。
以前は誰かに愛されれば、それで満たされて幸せになれるのにと嘆いて、できない理由は勘付きながらも足踏みしていました。
当時は、自分のこと好きに何てなれないという気持ちもあったと思いますが、自分のこと好き嫌い抱いたって意味ないじゃないと考えていて、自分について考えを巡らす必要が分からない、要するに「自分」への関心が常に希薄だったと思います。
けれどもまた我は強く、人に認められたい。
また誰彼構わず見下されることに耐性がない。誰彼構わず、というところが、ポイントなんですよね。
本当に自分を見つめられれば、どうでもいい人からの言動に気を取られること、
ヤキモキする感情が湧いてこないんですから。
人の意見や評価に知らずに振り回されてしまうことは本当によくあることですが、
その積み重ねた人生は他でもなく自分だけのもの、
傷ついたり、むしゃくしゃしたり、嘆いてみたり、そういうこと
全部、環境や生い立ちや国家に不満をもっても少しでも良くする努力、愚痴に終始せず
自分自身のことを真剣に見つめられる人は、人として、
尊敬に値するのだと思います。
自分を大切にする大事
たしか、中学生の頃にクラスで、ブログやオリジナルサイトの立ち上げブームがありました。
周りだけに自己報告する日常ですからそうたいして面白い話題性もなく、また、テキストの世界に開示される“自分”というものにも抵抗感がありました。
ものぐさな自分の一面もあり、ほとんど続きませんでした。ブログの思い出というとそうした挫折がありましたが、
こうして書いてみると、やっぱりここの自分って何だろうって思います。素朴なギモンですね。
文章だけの世界で概念化されうる私あるいは自分を、私は他人の視点から捉えようと無自覚に試みます。
どう思われるだろう、
どう感じられるだろう、
何で気になるんだろう、私を考えてるこの私はなんだろう、
自分を対象化するそんな意識が不思議でした。
私は何て、自信の無い人間だろう人の評価ばかり気にして、と思うこともたくさんありました。
ブログが続かなかったのは、わき上がる自己嫌悪を嫌ったのかも知れません。
当時は誰に何を伝えたいの肝心の「何」がなかったけど、いま
私が伝えたいことって何だろうと考えると、そのひとつは
自分を大切にする大事、を伝えたいと思います。
知らなければひとりでも多くに、気づいているなら確信に変わるように、
かく言うこの私も、
無頓着に放棄するという意味で蔑ろに扱っていましたから、そんな自分に対する自分の態度をある人に接触したことをきっかけに自覚されたのは数ヶ月前、ですから
自分を大切にするって何ぞと、まだ、よく頭抱えるものです。
ただ、概念的に自分の性を如何に受容するかということはそれと深くリンクしていると言えて、とたえ肉体が雄雌未定だろうとも、否定しないことだけは大事ですね。
実感を持って思います。
決して悪い意味ではなくて、「性」って一生の問題だからです。
ずっと女であること不運と思っていたから、私は今
自分の性を感覚的に楽しむことが楽しくてなりませんし、
着飾ることも、子どもや動植物を愛でることも、よりよく感じられる女であって良かったとようやくこの事実に涙してから、
もしも不要に性や孤独に悩み苦しむひと在れば、一人でも少なくなればいいと心から願っています。
女性という性って地上の恒星なんです。
新年のイベント
新年幕開け最初のイベントといえば初詣ですね。
元日は伊勢山皇太子神宮に参りました。
横浜の桜木町駅から徒歩15分ほどに位置しています。
此所に来るのは数え3才以来の場所で、父に抱っこされている写真を何度か見ていました。
懐かしくはありませんでしたが、祖母と二人で来れたこと嬉しく思いました。
カミサマへのお願いは、
こんな風になったら、あんな風に出来たら、だからカミサマどうぞ叶えてください。というのは他力本願の典型だけど、そうではなく、それは人生の仕切り直しの良いきっかけと聞いたことがあります。
人生という時間に対する意識的な区切り、大まかには、そのイベントのひとつとして新年を迎えると気持ちのよいスタートを切れるという意味かなと思います。
年を重ねると時間を速く感じるとか速度が加速していくような感じを覚える人が多いのも、たとえば、卒業や入学といった学生時代に経験するような節目に当たる出来事のきっかけが減っていき、ふとした瞬間に振り返ると、延々と過去が高低差無く続いてきているように思うからかも知れません。
そうした、きっかけをきっかけとして活用するために
必要なことは、何よりも意識して物事を考えようとする姿勢にあるとすれば、祈願も自分次第だから自分に集中すれば良いということかなと思います。
ちなみにおみくじは【末吉】で、中に打ち出の小槌が入っていました。
明けましておめでとうございます。
心から愛する人と出会い 自分を愛する喜びを知り 愛する人に愛される幸せを感じること
同じ県内の実家から離れ、新しい暮らしが始まって二ヶ月目になりました。
一年前はまだ私は学生で、院生最後の年だったけどまったく研究生活とは無縁だったと思います。
春も終わる頃に、世間の声に乗って、本音は好きじゃない就職活動してみたり、
反対に面白いと思っていた派遣の仕事は辞めて、それも本当は、
向き合うべき自分の課題だった他者との関係性から結局逃げた結果のことでした。
学校を後にした私は社会的に無所属になったことがきっかけで、それまでずっと抱いてきた気持ちを、実際けれど言葉にしてこなかった本望を、明確化した最初の意志は
「心から愛する人と出会い、自分を愛する喜びを知り、愛する人に愛される喜びを知ること」でした。
泣く夜の連続に飽きてしまったし、やっぱり苦しい。
誰かを信じたいし、人を好きになりたい。
いのちの大切さを感じて生きたい、
自分は生かされてるって本当はどういうことなんだろう、知ってみたい、と、私は
恐れから、あるいは自分への無頓着からか、知らずにいるままの世界の広がりと向き合うためにまず“自分を大切にすること、愛すること”を模索しました。
嫌われるのが恐くて他人を好きになれない、傷つくのが嫌で人と関わりをもてない、
こうして考えてモヤモヤすること既に面倒くさい、
表現するとなんて現代特有だろうと思うのですが、当時は間違いではなかったこれらの気持ち、
このブログを紹介してくれた方(改めて紹介させて頂きますね)とコンタクトを取って、喝を頂いたことで、私は自覚以上に私自身を蔑ろに扱っていたことを目の当たりするんですが、
この日を境に、人生は責任の意識次第で、可能性も含めてつくることが出来ると知って、
私は猛烈に(ふふ)自らに興味がわきます、
そして自分は、自分のことについて驚くほど多くを知らないことを体感します。
何やどんなことが嫌で、何や、どんなものごとが好きなのか、分かっているようで、真剣に考えないと分からないことだったんだ、
自分という対象も他と同様に向き合わないと分からないんだ、と気づいたんです。
私には意図せず環境の変化が訪れて、これを機に来る日も来る日も気持ちの本音と向き合うようになりました。
私が自分を知るために、私が自分を幸せにするために、私は私のためにできることをしてあげるだから貢献する、力を尽くす、あの不安から辛くて逃げたくなっても、
ゆっくりとでいいから、ちょっとずつ自分の心に配慮する、その積み重ねと習慣が自分を大切に扱うことの一歩ですよと教わったのです。
そうして、私は自らの存在は、可能性そのものだと思った、
衝撃的なことでした。